2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」       入江幸男
          第三回講義(2007年10月17日)

           §3 フィヒテの知識学 準備
  
1、準備
(1)Lebenslauf
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)の年賦
 
1762519日 in Dorf Rammenau in der sächsischen Lausitz geboren.
父親はRammenauBandwirker、母は、Pulsnizerの市民の娘。父はやさしく、母は厳しかった。フィヒテが9歳のとき、Freiherr von Miltitz が知人を訪ねるために村にやってきて、牧師の話を聞き逃したことを残念がると、フィヒテ少年が牧師の説教を覚えているということで、フィヒテの才能を見出すことになる。彼は、フィヒテをつれて帰り、Niederauの牧師のもとに住まわせる。12歳からフィヒテは、MeissenStatdschuleに通う。
1774年(12) Schulpforta(ギムナジウム)に入学
1780年(18) イエナ大学神学部に入学
1781年(19) ライプチヒ大学に転学
1788年(26) スイス、チューリッヒのオット家の家庭教師
1790年(28) ライプチヒでカント哲学を個人教授
1791年(29) ラメナウによった後、6月始めにワルシャワに入る。
         7月1日にケーヒヒスベルクに入る。
         カントを訪問し、カントの講義を聞く。
         7月半ばから8月半ばまで、『あらゆる啓示の批判の試み』を執筆する。
カントに送り、後日訪問する。1793年の春まで、1年半、Obersten Grafen in Krocow の家ですごす。
1792年(30) Ostermesse に『あらゆる啓示の批判の試み』出版。
         Reinhold も、Jenaer Literatur Zeitungも著者をカントだとみなした。
         そこで、Kantは7月末に、著者がフィヒテであると公表する。
1793年(31) 3月はじめに、Zurichへの旅を始める。
途中、Berlin, LeibzigStuttgart, Tubingen. による。
         6月半ばにZurichに到着。
      『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』(Krockowから)
      『これまで抑圧してきたヨーロッパの諸君主からの思想の自由の返還要求』(Zurichからを匿名出版
            ヨアンナ=ラーン(詩人クロプシュトックの義弟の娘)と結婚
1794年(32) イエナ大学に助教授として赴任。
            『学者の使命に関する講義』と『全知識学の基礎』を出版
1796年(34) 『自然法の基礎』出版
フィヒテは3回(1796/97WSと1797/98WSと1798/99WS)「新方法」の講義を行った。
「ハレ手稿」(アカデミー版)は、どの年のものか変わらない。「クラウゼ手稿」は、1978/99WSのものである。
1797年(35) 雑誌論文「知識学への第一序論」「知識学への第二序論」
1798年(36) 『道徳論の体系』
            論文「神的世界支配に対する我々の信仰の根拠について」
1799年(37) 「無神論論争」によりイエナ大学を辞職。7月ベルリンに赴く。
1800年(38) 『人間の使命』『封鎖商業国家』出版
1801年(39) 『知識学の叙述』(生前未公刊)
1802年(40) シェリングからの手紙で断絶
1804年(42) 私的講義『現代の諸特徴』(1806出版)
1805年(43) エアランゲン大学教授に就任。
      公開講義『学者の本質について』(1806出版)
1806年(44) 『浄福な生への指教』出版
      ベルリンがナポレオン軍に占領され、1018日ケーニヒスベルクへ避難
1807年(45) ケーニヒスベルク大学教授となるも講義せず。
      ケーヒスベルクも仏軍に占領され、8月ベルリンに帰る。
ベルリン大学開設に関して建白書提出。
      12月より翌年3月まで、『ドイツ国民につぐ』を講演(1808年出版)
1810年(48) 『知識学、その一般的な輪郭の叙述』出版
      ベルリン大学教授に就任。哲学部長に任命。
1811年(49) 学長に選出される。       
1814年1月27日(51歳) チフスの兵士の看護で感染した夫人の看護で感染して死亡。
 
()フィヒテの主な著作(分類)
知識学/その応用
     『あらゆる啓示の批判の試み』1792
     『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』1793
     『思想の自由の返還要求』1793
 
『知識学の概念について』初版1794,第二版1798
『全知識学の基礎』初版1794、第二版1802
           「学者の使命に関する講義」1794
『知識学に固有なものの要綱』初版1795、第二版1802
「知識学の第一序論」1797『哲学雑誌』
「知識学の第二序論」1797『哲学雑誌』
「知識学の新しい叙述の試み」1797『哲学雑誌』
     『自然法の基礎』前編1796.後編97
     『道徳論の体系』1798
     「神的世界支配についての我々の信仰の根拠について」1798
「あたらしい方法による知識学」1798
 
 <<無神論論争>>
          『封鎖商業国家論』1800
     『人間の使命』1800
「知識学の叙述」1801
「知識学」1804
          「現代の諸特徴」1804
     「学者の本質について」1805
     『浄福な生への指教』1806
     『ドイツ国民に告ぐ』(講演1807、出版1808
「意識の事実」1810
「知識学概略」1810
     「学者の使命に関する講義」1811
「知識学」1812
「哲学あるいは超越論的論理学に対する論理学の関係について」1812
     「法論の体系」1812       
     「道徳論の体系」1812     
「知識学への入門講義」1813
「知識学」1813
「意識の事実」1813
     「国家論」1813
     「真実の戦争の概念について」1813
 
(3)時期区分
■知識学の変化
(1)初期知識学(イエナ期)
   自我を出発点にして経験を説明する。
   自我ないし事行を出発点にして、それが成立するための条件、あるいはその成立を説明   するための条件として、自然の認識や行為を演繹する。
(2)中期知識学
   知識学は、「知の知」と定義されるようになる。
   絶対知を出発点にして、全経験を説明する。
   ただし、絶対者の存在を最初から前提することはない。
(3)後期知識学(ベルリン大学期)
   知識学は、絶対者=存在=生から出発する。
   知は、絶対者の像ないし図式として捉えられる。
 
知識学の変化の理由
外的理由1:無神論論争
外的理由2:シェリングとの論争

    外的理由3: ヤコービによるニヒリズムだという批判

内的理由1:決断と知的直観の矛盾。
内的理由2:他者論をきっかけに、「理性的存在者の体系」や「絶対知」の考察へ向かう。
内的理由3、道徳法則の究極目的として、理性的存在者の道徳的秩序(の根拠)=神=生=絶      対者の想定へ